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  • Noriyuki Koike

Lombardia 〜Vol.7〜

更新日:7月24日


写真

上:ウィーン会議の有名な風刺画「会議は踊る。されど進まず。」

下左:ラデツキー行進曲 ヨハン・シュトラウス1世作曲

下中央:ヴェネツィアのユダヤ人の所縁ジュデッカ島

共和国のシンボル有翼の金獅子

下右:パッラーディオのヴィッラ

ロンバルディアの古都ベルガモ

※写真はインターネットからの流用となります。権利等に差し障るようで有ればお申し出ください(速やかに削除いたします)


【諸説から広がる考察】

ここからこのミラノvsウィーンの熱い論争に水を差す形となって遺憾ではあるが、異なる諸説に触れてみる事をご容赦願いたい。

この論争はいずれにせよ一連の舞台は1700年代後半の18世紀と1800年代半ばから後半にかけての19世紀と考えられるが、コトレッタでもウィーナーシュニッツェルでもないパン粉を纏わせて揚げる肉料理の手法は既に1500年代の16世紀にはイタリアを越えてオーストリアには伝わっていた(存在していた)とされる説も囁かれる。


特に地理的にもオーストリアとのこうした文化の伝播往来にはやはりアドリア海の干潟に長らく君臨した共和国とその商人の存在を無くして考える事は難しい。

14世紀に隆盛を迎えたヴェネツィア共和国はイタリア北東部のみならず、それこそオーストリアや中央ヨーロッパ方面との盛んな交易でも知られている。それは代名詞でもある東方交易と並び共和国経済の屋台骨を支える最重要な財源の1つでもあった。香辛料の伝播などよく知られるが、この時点で既にイタリアとオーストリア、さらに東方文化との往来は密接であったのは周知の事実だ。

実は一説によれば東方世界(ここではイスラム世界、ユダヤ世界を指す)でもパン粉を纏わせて揚げる料理の手法(七面鳥や鶏肉、野菜など)が既に確立していたとの見解が現在において俄かに有力で、コトレッタの起源においてはスペイン発祥の説すら存在する。

確かにユダヤ人はエルサレムのローマ支配以降、離散を余儀なくされ、イタリアはもちろんやイベリア半島にも多く移り住んでいた。6世紀に起こりその後イベリア半島の多くを支配したイスラム世界は、当時今の様なユダヤ人との対立構図はなく、同じ聖典を元にする〝啓典の民″として共存できていた(キリスト教も然り)。

だが、政局は変わりイベリア半島においては10世紀以降のキリスト教側の国土回復運動(レコンキスタ)が活発化して行くと共に関係性は決裂。この運動(闘争)が成し終える15世紀頃にはユダヤ人は半島からの追放を余儀なくされ、ヨーロッパ各地に再び離散せざるをえない立場となった。その一部の多くがヴェネツィアにも、という流れだ。

そうしてユダヤ人が最も多く移り住んでいたと言われるかつてのヴェネツィアでは、イタリア最初のユダヤ人地区〝ゲットー“ の呼び名が生まれた地域としても知られる。

また、こうしたユダヤやイスラム世界とこの地との関わりは当然の如く東方交易や十字軍遠征(特に第4回はヴェネツィア商人が大きく関与している)も密接に絡んでいる。古代ローマからの流れ、スペインとの絡みも含め、あの12世紀の揚げ肉の原型も発祥はミラノではなく、そのずっと以前からこのような地域で生み出されたした可能性も否定は出来ず、様々な状況を整えて考察すると、こうして〝16世紀にはパン粉を纏わせて揚げ焼いた肉料理が既にオーストリアに伝わっていた″ 、とされる説も妙に説得力を帯びつつ考えさせられてしまうところだろう。

余談だがイエスの父、聖ジュゼッペ(ヨゼフ)もエジプト逃亡生活の時には本業の大工ではなく揚げ物屋として生計を立てたという伝説もあり、南イタリアではゼッポラと呼ばれる3月19日のイタリアにおける父の日、聖ジュゼッペの日に食すお菓子が揚げ物である理由の根源はそこだとも言われている。また大工であった為、その象徴としての〝おがくず ″ に見立ててパン粉を用いる料理も供されるともされ、こうした関連性を紐付けして考えだすともはや思考回路を閉ざしたくなるほど難しい。

またこの時代は15世紀末期以降から16世紀にかけて、大航海時代の幕開けにより新大陸航路や南アフリカ航路などが次々と生まれ、これまで独占状態で絶大な利権を握っていたヴェネツィアの東方交易の重要度や価値も著しく低くなる。更には共和国領土各地での戦争や、かのオスマン帝国の台頭と強大化に伴い、とうとうアドリア海の利権もオスマン帝国との争いに敗れ、奪われてしまう。こうして〝アドリア海の女王″ 〝セレニッシマ(雲一つ無き晴天)″ とも畏敬を込めて呼ばれた栄華は徐々に衰退の道へと向かう。

だが、おいそれと滅びゆかず、結果として1000年というとてつも無く長い時間を共和国として成立させ続けたヴェネツィアの逞しさがそこにあった。

そう、かつての海の覇者は内陸に活路を見い出し(ある意味追いやられたとも言えるかもしれないが)イタリア本土の北部に本格的に進出。その領土を確保し、共和国を存続させ続けたのだ。

ヴェネツィアからは遠く、そのイメージを沸かせ辛いだろうがロンバルディアの都市ベルガモやブレーシャもこのヴェネツィア共和国領土として組み込まれ、争うミラノ公国やジェノヴァ共和国などの北西側勢力からの防塞都市として重要な拠点ともされた。今もこの地の伝統料理やお菓子の中にはこの時代にもたらされて根付いたものも多く、れっきとした郷土の味として食べ続けられている。

また、当時も活躍が知られる建築家パッラーディオはこのヴェネツィア共和国を中心に活動した。内陸ヴィチェンツァ近郊の彼の手によるヴィッラ群もこの時代からの建築で、古代ローマの建築様式の復刻という側面で名を馳せるが、その実、内陸での農作物生産における農民達の拠点とした大農園とする事が目的であった。これらは皆、内陸での食糧自給にかけた共和国の足跡だ。こうしたミラノ近郊に迫るロンバルディア内陸部への進出と絡んだ文化の伝播も考えられよう。

また、かたや16世紀といえばフランスとの関連性の時にも触れたカテリーナ デ メディチの婚姻がもたらしたヨーロッパ文化の発展における歴史上の重要な転換期の1つでもある。

そして国土回復運動が完了したイベリア半島ではカルロス1世(カール5世)によるスペイン-ハプスブルク家の成立もこの時代に起こる。その後の何代かのフランスとの婚姻も絡みつつも対立するフランスをオーストリアは本国とスペインで挟む形となる。

そこで戦争をする、しないはともかく、その往来の途中で必ずフランスを経由するとなればそこは互いに他所の文化に触れる機会、交流する機会となっていたのは確実だと考えてなんら不思議では無かろう。そこにコトレッタかコートレットか、シュニッツェルか、何かあの様な料理が食されていた可能性、すなわち文化の伝播の瞬間も考えられる。

もっともその後時代の18世紀には隆盛を迎えた本家オーストリア-ハプスブルク家のマリア-テレジアの娘、マリーアントワネットが後のフランス王ルイ16世に嫁ぐのであるから、その先はフランス革命までと、かくも短いしれないがこの時代での文化の往来はご存知の通りだ。いよいよ18世紀伝播説が囁かれるのも理に叶った考え方だとも思う。

歴史の一場面では文化や商業という、いわゆる民衆意識と政治とは同じ歩みで進んでいるかのようで、ある分野では全く別に切り離して考えなければいけないのは昔も今変わらない。まさに今、これを書いている時点で一年半も続いているコロナ禍や五輪を目前に控えたこの国において、国内外でに政治の駆け引きや文化面、などなど、それまで様々な国際社会との接点を観て多々思うところだ。

本題に立ち返ると果たしてコトレッタ、と言うよりも12世紀のあの揚げ肉料理は一体何処で何が起源とするべきか?

そうした大きな観点で捉えて見ると、 もはやミラノだ、方やフランスだオーストリアだ、などと言う枠では到底捉えきれない奥深き世界であり,どこからどう伝播していったとしても 決してその可能性は否定できない、と筆者は考える。

ラデツキー説以前にあたるウィーン会議。フランス革命からナポレオンの失墜(1度目)まで緊張状態であった各国は、それぞの思惑は裏の顔に隠しながら表向きには優雅に柔らかな雰囲気の中での話し合いを、と開催されている。「会議は踊る。されど進まず。」の名言が残されたほど毎夜の如くの絢爛な晩餐席に、タレーランが帯同させた1人の天才、宮廷料理人アントナン・カレームが、それともメッテルニヒの料理人からか、コートレットもしくはウィーナーシュニッツェルが振る舞われていたかも知れないと思うと議論の核は政治ではなく料理だったのでは無いか、と思えてしまう。

そこからはここまで述べてきた逸話へとつながる。

余談のついでとは言葉が悪いが、ウィーンを訪れた人は一度は食すであろうもう一つの名物「ザッハトルテ」。これチョコレート風味の生地に挟まれたアプリコットのジャム、それお覆い尽くす濃厚なチョコレートのコーティングに描かれた〝Sacher″ の文字。

これもまた御多分に洩れずその後の諸説云々あるのだが,ウィーンはおろかオーストリアを代表し、今や世界のお菓子業界においても絶対に外してはならない教科書のような存在とも言える銘作だろう。

このザッハトルテ、実はこのウィーン会議きっかけに各国の要人をもてなす為生み出されたもので、先ほどの〝メッテルニヒの料理人″ というのはその中の一人、元祖を考案した〝ザッハ氏″ の名をそのまま冠したものなのだ。

このウィーン会議という一つの時代の転換期は、政治の一面だけでは到底捉えれ切れない大きな出来事だった事を実感できるだろう。



いかがであろうか?

こうして考え出すと、あれもこれもと迷いだし、また振り出しに戻る。

まさに正解やましてや不正解という〝答え″ の無い「堂々巡り」なのだ。

また、当時のオーストリアではこの英雄(イタリアからしてみれば宿敵だが)の凱旋を称えて、かのワルツ王ヨハン・シュトラウス2世の父である1世により作曲されたのが今もウィーンフィル交響楽団のニューイヤーコンサートの定番として世に知られる、その名も「ラデツキー行進曲」。

軽妙なリズムの演奏と会場一体となった手拍子のそれは爽快にして実に聞き心地良く、正直筆者も好きな曲目なのではあるのだが、素直に受け入れ難し、と感じていただけるイタリア料理関係者はきっと他にもいる事だろう。

料理、音楽そのどちらもそれぞれに前にした時、背景に見えてくるこの壮大な一連の語り草はあまりにも興味深く、そして伝統料理がいかにその時代の食文化であり社会を映し出す「食べる歴史の記録」である事を痛烈に感じる。

余談が多いが、このコトレッタ論争、ウィーナーシュニッツェルがミラノにて比較される際によく「オーストリアでは豚肉でこれを作る」という表現が良く発せられるが、現地オーストリアでは豚肉を用いたシュニッツェルは〝Wiener Schnitzel Art” または〝Wiener Schnitzel von Schwein” と呼ばれ、事実上、似て非なるもの、公式にも別の料理と考えられている様だ。イタリアで例えれば〝Cotoletta di maiale 〜豚肉のコトレッタ〜“ であり,

厳密には〝alla milanese″ の文言は付随しない。もう十分ご理解いただけたと思うがミラノ風(式)は正しくは仔牛でなければならないからだ。それゆえに外国だからと言って仔牛も豚肉も一口にウィーナーシュニッツェルと括ってしまうにはやや早合点な部分も感じてしまう一面もあろう。

ミラノもミラノで、声高に元祖を名乗るのであれば〝敵を知り己を知れば百戦危うからず″ が若干必要かと思うところ有り。

だがそこは世界最高峰の「Campanilismo カンパニリズモ 〜郷土愛主義〜」を誇るイタリアだ。極端な話すぐ隣の街や村ことすら興味もない、いわば〝おらが村が一番” なイタリア人気質が見事に表れた一幕ではなかろうか、と妙に腑に落ちる。

ロンバルディア、続く。

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