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  • Noriyuki Koike

Lombardia 〜Vol.1〜

更新日:7月18日




写真

上左:ロンバルディア地図

上右:イタリア統一運動 ミラノ トーザ門の戦い 下左:ロンバルディア同盟 下右:レニャーノの戦いの英雄 アルベルト ダ ジュッサーノ

※写真は手持ちが無かった為インターネットから流用(陳謝)。権利などに触れる場合にはお申し出ください(速やかに削除いたします)。

【ロンバルディアとは】 北イタリアの中央に位置するロンバルディア州。

州の面積も広く、それをよく表すかのように、内陸の為に海こそは有しないが州南部は多くの川と広大なパダーノ平野、北部にはスイスとも接するヨーロッパアルプスの山岳地帯と世界屈指の風光明媚で知られる湖水地方。 平野部と山岳部の間にはイタリア随一と称される酪農地となる高原地域など、多様な地理的要因がもたらす州内の各地域ごとの気候風土と、州内各地の歴史ある気高き文化都市達。ロンバルディアという地が背負った複雑な背景とともに実に様々な食文化を育んだ。

とは言えロンバルディアという名は残念ながら日本では一般的には決して知名度の高い地域では無いのが現実だ。だが、イタリア関連の人間を除き、州名というよりも州都であるミラノの名を聞いたことの無い者はまずいないであろう。そのミラノのイメージの筆頭にあがるファッション、カルチョ(サッカー)、車などであろうし、そうした分野は勿論、商業や金融の中心地でもある。またミラノを離ればイタリアの主要な工業、製造業などでもロンバルディアはその中心的な担い手としてイタリア経済を牽引する存在でもある。


また、当然食の世界を外しては考えられない。ミシュランやガンベロロッソなどレストラン業界においても国内外に評価の高いレストランがミラノはもちろんの事、州各地の街や田舎と、ところ狭しとひしめく名実共に世界に誇る美食の地域でもある。

州内の主要な文化都市はそれぞれに現在県都となっている事が多く、平野部では大学と修道院、リゾットとズッパ、ワインの産地で名を馳せるパヴィア 、ミラノ公国のお膝元で古くからのチーズで知られるローディ、ヴァイオリンとコテキーノ、モスタルダ、トッローネの街クレモナ、洗練された宮廷料理とルネサンス芸術発展に大きく貢献したマントヴァ、ヴェネツィア文化の香りが残る古都ベルガモ、先史時代やローマからの足跡とご存じフランチャコルタのブレーシァ、などそれぞれがその個性や特徴を存分に表現して発展しており、州全体の優雅な雰囲気を醸し出している。

北部では山と渓谷、蕎麦粉の産地で、キアヴェンナスカ種の厳格なワインを生み出すソンドリオのヴァルテッリーナ地方。コモ、レッコ、ヴァレーゼの貴族や著名人の別荘が立ち並ぶ風光明媚な湖水地方では豊富な淡水魚料理。近年では新たにミラノ北部、サーキットと酪農業のモンツァ・ブリアンツァも確立し、全20州の中でも、属するプロヴィンチャ(行政県)は最多の12県を誇る。


こうした観点からまずロンバルディアを「州」として括った上での食文化を論ずるにあたり、お気付きだろうがかなりの多様性を持った地域として「州内に存在する伝統料理」としては括れるが、「ロンバルディア料理」という1つの概念や全体像は現実的には存在し得ない。それはまさに「イタリア料理」が真の意味で存在しない事と同じ論点であり、全体像を大まかに掴むには州内を幾つかの地域に分けて考える必要が有ると言えるだろう。

あくまでこの地方の多彩な料理の中からの数皿を拾い上げるだけではあるが、まずはロンバルディア州各地の多様な食文化をその背景となった歴史背景の観点から触れていきたいと思う。

【古代〜】

ブレーシァ北部のカモニカ渓谷には先史時代の壁画や遺跡が残されており、この地の歴史の長さをまず感じる。時代はそこから大きく進むが、州の名がその意味を示しているように、語源となる「ランゴバルド人の地」という視点から見えるロンバルディア州というものの骨組みを辿っていく。

古くは古代ローマの領域が「賽は投げられた」のあのルビコン川までであった時代、この地を含む北イタリアの多くは〝アルプスのこちら側のガリア″ という意味を成す「ガリア チザルピーナ」と呼ばれていた。すなわちローマから遠く離れた蛮族の住む地域として考えられていたのだが、ローマの領域が拡大し、属州として吸収されてゆく中でローマの文化と融合していった。

ランゴバルド人というのはゲルマン系民族で、いわゆる「ゲルマン民族の大移動」で東ゴート、西ゴートなどのゲルマン諸国に続き、6世紀にイタリア北部に最後に侵入してきた民族である。

当時のイタリアは栄華を誇ったローマ帝国は東西に分裂し、西ローマはこの時点ですでに滅亡していた。ランゴバルド人は重要地ラヴェンナの総督府と北イタリアを占領していた東ゴート国を退けるため、東ローマ帝国と共に戦い勝利し、晴れて現在のパヴィアを都とする「ランゴバルド王国」を建国。次にはその東ローマをも退け事実上イタリアを蹂躙する事なるのだが、それも長くは続かず、ついにはローマ教皇と手を結んだ新たな勢力、フランク王国との争いに敗れ滅亡してしまう。

しかし、この地方の呼び名などは名残りがいつしか「ロンバルディア」と呼ばれるようになり定着していった経緯だ。

【中世〜】

フランク王国に敗れた後、「ピピンの寄進」により広大な領土、いわゆる教皇領を確立し、政治的にも強大な影響力を持つようになったローマ教皇と、そのピピンの子「カールの戴冠→カール大帝、シャルルマーニュ(イタリアではカルロマーニョ)」以降に実質的に続いた後継ローマ帝国(後に神聖ローマ帝国となる)の歴代皇帝達との確執は大きくなり続けていった。すなわちそれは神と世俗その双方の世界における実権においてどちらが優位性を持つかの対立構図であり、世を「教皇派」「皇帝派」に二分し混乱に貶めた「叙任権闘争」という政治的な衝突となった。象徴的な事件「カノッサの屈辱」で一応の決着は形として治るが、根深い火種は決して消える事は無かった。

こうしてルネサンス勃興を待つまでのいわゆる「暗黒の中世」と不名誉に称される長い時代に突入してゆくのだが、その実はその後の飛躍的な時代の躍進の為の重要な準備期間だったという見方も多い。

そうした時代の潮流をまさに背負ったのがロンバルディアだった。

12世紀には神聖ローマ皇帝バルバロッサ(赤髭王)フリードリヒ1世はイタリア半島への積極的な南下、実効支配権の拡大を目論んだ「イタリア政策」を強行する。

当然ながらそれはアルプスを越えて「神聖」の名の下にキリスト教世界(カトリック世界)を支配する為、それはすなわちヨーロッパの覇権を握る為のローマを目指す進軍だ。これに対し、ロンバルディア一体と周辺北イタリア地域の都市達は結託、名高い「ロンバルディア同盟」を成立させ徹底した抵抗姿勢を取った。これに皇帝側と対立するローマ教皇も当然この同盟を支持し、現ロンバルディアを中心とした北イタリア一帯を主戦場とする全面対決の形となる。

ロンバルディア同盟は数々の激戦を繰り返しながらも遂には今も語り継がれるイタリア人の誇り、伝説的な〝レニャーノの戦い″ にて歴史的な勝利をあげる。

強大な神聖ローマ帝国を却けさせ、この地での自治権の獲得に 至ったのだ。

写真にある像はこの偉大な勝利を象徴する人物。ロンバルディア同盟軍を率いて戦ったと言われる「Alberto da Giussano アルベルト ダ ジュッサーノ」、その人だ。(実際は後世に書かれたこの戦いの物語における象徴的な人格として作り上げられた空想上の人物だとされている)。


この闘争は実は一度では終わらず、フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝、シチリア王フェデリコ2世)以降も十字軍なども絡み長らく尾を引く。


実際にはロンバルディア同盟後の時代には都市それぞれに発展の土台や背景も様々で、ルネサンス期以前までの中世末期は、教皇のアヴィニョン捕囚に見られるようにもはや社会は混乱し、都市ごとに教皇派と皇帝派、封建領主、ロンバルディア同盟という線引きや力関係も曖昧となり、それどころか一つの都市内でもその様相は同じであった。

だが、のちに花開くルネサンス以降にはこの同盟に名を連ねた主要な都市では有力な貴族や商人を中心にそれぞれが発展してゆく。その多くがイタリアが統一されるまでの間に数多く存在した都市国家、小国家の系譜であり、現在、州内の県都へと繋がっている。ミラノはもちろんの事、ブレシア 、ベルガモ、クレモナ、マントヴァなどはまさにその代表格となった・

特にミラノ公国やマントヴァ公国などはルネサンス期に大いに繁栄し、多くの芸術家を支援するなど政治や経済だけで無く文化面での発展への貢献度もかなり大きなものだった。

そうした中においてミラノやパヴィアでは後のミラノ公国最盛期のヴィスコンティ家、スフォルツァ家が皇帝側との縁や駆け引きをうまく活かした治世であった事は実に象徴的である。


【近代〜現代】

このかつてのロンバルディア同盟に含まれた地域は、時代は進みフランス革命以降のヨーロッパ各国の市民革命や政治的緊張の渦巻く中、18世紀、かの皇帝ナポレオンが確立した「チザルピーナ共和国」の領域の母体ともなっている。この共和国の成立と、実質的に単なるフランスの従属国としての不当な扱いと、もう一つの隣国オーストリアからの干渉とヴェネツィア方面の占領など、ロンバルディアと北イタリアはまさに各国支配の思惑に翻弄される形となっていた。

そうした緊迫した社会情勢の下、イタリア各地において燻り続けた火種はついに19世紀、政治結社カルボナーリ党の運動を引き金に始まり、「ミラノ蜂起(ミラノの五日間)」により本格化してゆく「イタリア統一運動・リソルジメント」へと突き進んでいった。ロンバルディアはその後の統一の立役者サルデーニャ、ピエモンテの影に隠れてはいるが、実はその大きなきっかけを作った存在であったのだ。

ナポレオン以降のウイーン体制、第一次大戦、ヴェルサイユ体制、ファシズムの台頭、第二次大戦と、イタリアはおろか世界を巻き込んだ大きな時代の激流の中にあり、「イタリア王国」を経て、今、こうして現在我々の知る「イタリア共和国」という国が成立するまでの間、政治の舞台ミラノを軸にこのロンバルディアは当然その渦中も渦中にあり続けた事は想像しうるに易い。

この時代に関しては料理と合わせて後にまたもう少し詳しく触れてみる予定だ。

【総論】

やはり地理的にヨーロッパ本土の列強から見ると、いや、古代からの時代もアルプスを越えて地中海方面、その先のアジア、アフリア進出への最重要な位置にあるイタリア半島へのいわば玄関口となるロンバルディアは、各国間の紛争、そして二度の大戦も含め、幾度となくこの地の支配権を巡って激動の時代を重ねてきた事を如実に感じることができる。

寒く天候もすっきりとしないアルプス以北のヨーロッパの向こう側からしてみれば「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」の正に逆。アルプスを越えるとそこはあたかも楽園にも似た幻想を抱くかの如く太陽が降り注ぎ、その恩恵を受けた肥沃な大地、碧い海。キリスト教世界の頂点たるローマを支配、そして海の先にある野望。

かつての列強諸国が喉から手が出るほど欲したイタリアはそう映っていた事なのだろう。

遡るが、ランゴバルド人とその王国は単純にかつての一つの地方「ロンバルディア」の語源という存在だけではなく、実質的に「古代」と呼ばれる時代に終止符を打ち、カールの戴冠から現在に続くヨーロッパ社会の礎が構築されて行く道筋、次の時代への扉を開く重要なな鍵となったのだ。それは世界の歴史を語る上で決して外してはならない存在と言える民族であったと改めて感じるところでは無かろうか。


では次回はいよいよ食、料理の話に入っていく。

ロンバルディア 続く。




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