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  • osteriadelloscudo

il Cenacolo, l’Ultima Cena



「il Cenacolo、l’Ultima Cena 〜最後の晩餐〜」。

誰もが知るこの世界的に偉大な絵画であるが、復活祭に絡めて改めてその意味について触れてみる。


絵画の意味として〝磔刑にされるキリストがその最後の晩に弟子達と食事をした場面″ として言われている事をよく目にするが、実はこの解釈は【事後】の結果からそのよう表現されたもの、という認識が必要なのだ。


前回の話から続くが、l乱れたユダヤ教社会を正すべく「エルサレム入城」を果たしたキリストは、当時のユダヤ教会において実権を握っていた〝ファリサイ派″ の指導者達への抗議や説法などを行うなど、いわば本格的な改革に動き出した。

しかし、民衆の絶大な支持を得て「救世主」と称されるキリストは、ファリサイ派の指導者や、さらにその上でイスラエルを実行支配しているローマにとっては〝自らの地位を脅やかす者″ であり、さらには厳粛な世に戻ってしまえば富を失う癒着した商人達にとってもこうしたキリストの存在は妬ましく、憎らしく、まさに〝脅威″ であり〝恐怖″ であったのだろう。 言うなれば「邪魔な存在」でしか無かったのだ。

結果、彼らは結託してなんとかキリストを排除するべく、の行動に出る事になる。それがキリストを反逆者として捉え、処刑する、という計画であったのだ。


一方のキリストの一行は、この頃がちょうどユダヤ教の大事な行事「過越(すぎこし)の祭」の時であったため弟子達とささやかな食事をしていた。

【注】この「過越祭」については復活祭と並行して後日説明予定。


この食事のさなか、キリストは自らに迫る命の危機を悟していたかのように「パンは私の肉体、ワインは私の血」の言葉を発し、自分の教えを〝取り込む“ 事を命じた(この表現の解釈は非常に難解であり、今も研究や議論の続くものである為、大まかなものとさせていただく事をご理解いただきたい)。


これが多くの画家が手掛け表現した、いわゆる「最後の晩餐」の主旨であるが、この時にキリストが「裏切り者」の予言も口にした事で、食事の場が騒然となった、と伝わる逸話を表したものが「最後の晩餐」の中でも最もよく知られ、且つ、他の画家の作品とは一線を画す表現とメッセージを込められたものとされているのが、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に描かれたこのレオナルド・ダ・ヴィンチ作のものなのである。


またこの絵画では表現されてはいないであろうが、後のカトリックの総本山、ヴァティカンの聖ピエトロ大聖堂に眠るペテロ(イタリアの呼び方がピエトロ)の「鶏が鳴く前に貴方は三度、私を知らないと、、、」の逸話もこの食事の時の出来事だったそうである。

この逸話はいくつもある福音書ででも必ず語られる出来事で、この時のペテロの心の葛藤はそれだけキリスト教の始まりにおける重要な出来事であり、その本質、心理に迫るものだったのだろう。(宗教の解釈はこれもまた難しく、答えはないと思うので、あくまで私の主観での意見だが)


食事を終えたキリストは食卓から立ち上がり、弟子達の足を一人一人洗って清めたとされるのだが、食事をしたのが木曜日であったため、ここから〝年に一度“ だけこの聖週間の木曜日は「Giovedì santo 聖なる木曜日」。別名「洗足の木曜日」とも呼ばれることとなった。


この「最後の晩餐」の後、キリストと弟子達はエルサレムの郊外にある「オリーブの山」の麓で、搾油場のある「ゲッセマネ」というオリーブ園に赴き、祈りを捧げていたところ群衆が現れる。 それがユダヤ教の司祭達、ローマ兵達、そしてその中の1人、銀貨30枚で彼らにキリストを引き渡す契約をした(といわれる)〝裏切り者″ 「イスカリオテのユダ」がいた。


その存在を由々しき事とした権力者達によりキリストは「救世主を名乗り、世の中を騒がせた者」としての罪を着せられ、たちまちにその場で捕らえられてしまった。


そうして日付が変わり「金曜日」。いよいよキリストの「受難」がここに始まる事になる。


誰もが聞いたとこがあるであろう〝ゴルゴタの丘“ へ続く〝via dolorosa 悲しみの道“ を十字架を背負って進み、遂には自ら運んだ十字架に磔(はりつけ)にされ、キリストは最期を迎える。


今でこそ十字架は全キリスト教における清らかなシンボルであると思うが、歴史的な観点から見るとこの時代、十字架はローマにおける拷問処刑の道具であったとされ、極めて重罪とされる罪人に対して執行される磔刑は中でも最も残忍なものの1つであったそうだ。

ここからもこの時代、エルサレムのローマによる実効支配の様相が想像できよう。


ちなみにこのキリストが最期を迎えたこの場所に後に建立された「聖墳墓教会」、前回の項で少し触れたが、紀元70年に再びローマとの戦争によってよって崩壊したユダヤ教の神殿(第二次)の一部と語り継がれている「嘆きの壁」、そしてイスラム教の「岩のドーム」。

同じ街に源を同じくする三つの宗教の聖地がひしめくこのエルサレム、その難しい世情はよく知られているところだと思うが、こうして歴史を掘り下げていく事でその背景が見えてくる。


話は戻る。

これ以上の細かい描写はまた機会をみてとするが、こうして「金曜日」にキリストは処刑された。それも自身がそうなる事を悟り、受け入れての事。

そこに深い意味があるのだがそれはまた次回とするが、これ以来(と簡単にいうが2000年の歳月)金曜日は「厳粛な日」として、豪華な食事は取らず質素に、静粛に主を尊ぶ、すなわち〝肉を食べない“ という習慣が出来上がっていった経緯だと言える。


そして3日後の日曜日、キリストは「復活」へ。

ここまで長くなったがこれが「復活祭 〜Pasqua パスク〜」への大まかな流れだ。



ここで料理人として視点を変えて考えてみる。

復活祭への流れとしてこの重要な場面を描いたあまりにもよく知られた絵画を例にとってみたが、ここで料理人としての観点で興味深いのは、例えばこの食事の中で食べられていた例の〝パン“ や 〝ワイン“ を始め、〝仔羊“。 あるいは長年の研究で有力と言われている〝鰻のグリル オレンジ添え“ や〝豆のスープ “ 、〝煮た青菜“ 、〝オリーブ“ など、こうした古い絵画に描かれている料理や食材に目を向けて観ると、その時代時代の食の様子や文化的、地理的な要素を知る上で非常に貴重な資料となる。


とは言え、実際、聖書などを題材にした絵画は描かれた時代はルネサンス期などが多いため、また教会などに描かれているものもこれもまた逸話を元に、あるいは伝承や作者や依頼人の意図的な狙いなど、様々交錯するので絶対とは決して言えないところではある。


先にも述べたがそれこそ「最期の晩餐」はこのレオナルドの描いたもの1点しか存在しないのでは無く、いろいろな時代、場所、作者によって数多く描かれ、またぞれぞれに表現が違ってくる。


「最期の晩餐」でキリストが自らの肉体として弟子達に説いたパンは、この背景から踏まえて通説にもあるユダヤの「過越祭」に食する「無発酵のパン」であったと考えられるし(そうでない説もまた有り)、自らの血としたワインは当時の飲み方としてハーブやスパイス、蜂蜜、イチジクやナツメヤシなどの乾燥果実を漬け込んだものだったであろうとも。

今に続く修道院のお菓子の数々にこうした乾燥果実や蜂蜜、モストコットなどを多用する土台を大いに感じさせてくれるものではなかろうか。


オレンジなどの果実も、例えばこのレオナルドの1枚も描かれた時代を考えれば、9世紀以降のシチリアにおけるアラブの影響下、柑橘類の栽培以降に広まっていた時代であるから普通に食べ物として描かれるのは当たり前の感覚だが、物語は描かれた時代よりも1500年も前の事、おそらくレオナルドもそうであったと思うが、やはりそこに歴史浪漫を大いに感じながら描いていたのでは無いかと、〝あくまで勝手に” 共感できるものがある。


そうして考えれば、描かれたのは中世のイタリア、ミラノだが物語は今から2000年前、場所はエルサレムという中近東であって〝イタリアでは無かった“ という原点を意識してみると府に落ちる。


繰り返すが、古い絵画から得られるそうした情報は、もちろんその絵画の種類にもよるが確実に立証できるもの、あるいはその時代の価値観や解釈で描かれていたであろうもの、作者の想いが込められているもの、様々。


私は全く絵画の技法などに関しては完全に無知ではあるが、イタリアの伝統料理を生業とする料理人目線で鑑賞してみると、ある意味、芸術作品が並ぶ美術館や教会などは当時の食文化を想像させる「博物館」に見えてくるから不思議だ。


さて、次はいよいよ復活祭へ。


15. Aprile. 2020

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